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京都地方裁判所 昭和47年(ワ)1358号 判決 1975年10月09日

原告

丙野一郎(仮名)

右訴訟代理人

甲野太郎(仮名)

被告

丁野二郎(仮名)

右訴訟代理人

乙野次郎(仮名)

外一名

主文

原告の請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一、当事者の申立

原告

1  被告は原告に対し金一三、二一六、二一六円を支払え。

2  被告は原告に対し謝罪せよ。

との判決と、仮執行の宣言。

被告 主文同旨の判決。

第二、当事者の主張

一、請求原因

1  被告は、肩書地においてかねてより眼科医院を開業している医師である。

2  本件診療事故の経過

原告は被告に時々眼の治療を受けていた者であるが、昭和四七年一月三一日朝、読書疲れのため右眼に軽微な充血が生じたのでそのころ被告医院を訪れ、被告に対し右眼の診察及び治療を求めたところ、被告は、目薬による点眼治療を施した。

右症状は翌日の二月一日になつても治癒していないため、同日も被告から前同様の点眼治療を受けたが、その点眼後、被告は原告の右眼の症状について、「眼の角膜に傷がある。ヤニがあつた。その傷からばい菌が入つて角膜潰瘍にでもなると大変ですから、ばい菌のはいらないよう固めておきましよう」といい、その治療としてフルオレスチン色素による染色検査のうえ、熱した白金線により角膜を焼灼する白金線焼灼を実施した。

右治療の結果、同日原告の右眼はほぼ失明の状態となり、角膜の疼痛が始まつた。

原告は、同月二日被告の応急処置を受け、同月三日から同年七月中旬頃まで京都大学医学部附属病院(以下、京大病院という)に入院或いは通院して治療に努めやや視力が回復したが、一進一退を繰り返し、この儘では好転するものか否か不確かなため、同年七月中旬頃から引続き京都府立医科大学附属病院(以下、府立医大病院という)に入院或いは通院し治療を受けていたところ、同年九月真性の匐行性角膜潰瘍に罹患し完全失明し、現在では最早視力回復の望みがない。

又失明による後遺症とみられる疼痛や耳鳴りが現在も続いている。

3  因果関係

右失明の原因は、被告のなした右白金線焼灼しか考えられない。そもそも白金線焼灼は後記のとおり失明の蓋然性の方が大なるものであつて、原告は失明するべくして失明したものである。又その後の匐行性角膜潰瘍も被告の白金線焼灼によるものである。なぜなら匐行性角膜潰瘍は角膜上皮の損傷に起因するものであるが、原告には白金線焼灼しか上皮損傷の事由はなく、一方匐行性角膜潰瘍は細菌によるところ、フルオレスチンはその汚染の危険を指摘されているからである。

4  債務不履行責任

(一) 原告と被告との間には、遅くも前記昭和四七年二月一日、原告の右眼の充血といり病的症状についてその医学的解明とこれを治療することを目的とした準委任契約が成立したものというべきであり、被告は右契約に基づき原告に対し適切な診察治療を行い、右治療の副作用により右眼を損傷することのないようこれを防止すべき義務がある。

(二) ところで、眼科医としては、前記の如く眼に充血症状がある場合においては、通常エリコリシンかコリマイCによる点眼治療が安全且つ適切な治療法であり、又角膜潰瘍の予防としてもせいぜい抗生物質の点入どまりであつて、白金線焼灼の方法は、絶対に採るべき方法でない。かかる文献は勿論一切ない。そもそも白金線焼灼は、失明覚悟の方法であつて、他の方法をもつてしては失明するしかないときにとられる危険極まる手術療法の一つである。それほど白金線焼灼は失明と不可分の関係にある。そんな危険な方法が前記原告の症状の治療・予防として許される理は全くない。

仮に原告の症状が単なる充血症状にとまらず匐行性角膜潰瘍に罹患していたものとしても、広く同症についての治療方法は確立しており、順次以下のようにされるべきものとされている。

(イ) 抗生物質治療にまずよるべきで、そのため起炎菌の決定、感受性試験を急ぎ、使用する抗生物質の組合せを決定する。

(ロ) 菌の多数は最近は緑膿菌であるから、緑膿菌に対する対策をつねに講じるべきであり、菌決定の遅れるときは、緑膿菌・ブドウ菌・肺炎双球菌に対する抗生物質のカクテル投与すべきである。

(ハ) 局所及び全身の栄養・抵抗力を高めるように努力する。

(ニ) 疼痛について十分に考慮する。

以上の如くである。

手術療法は、右あらゆる方法が効果のないときに考慮のうちにはじめてはいるもので、いきなり被告のような角膜焼灼という手術療法を行うのは治療の常識を甚しく逸脱するものである。

仮に、万歩譲つて治療当時の原告の右眼の症状に対し白金線焼灼の治療方法を実施するのが適切な治療行為であつたとしても、右治療行為を実施するについては、これに伴う危険の発生を察知して適切な医学上の防止処置をとるべき義務があるのにかかわらず、被告はこれを尽さなかつた。

(三) 以上のとおり、原告の右眼失明は被告が前記準委任契約に基づく義務を尽さなかつたためであるから、被告は債務不履行の責任を負い、原告に対し後記損害を賠償する義務がある。

5  第二次的主張―不法行為責任

仮に被告に債務不履行責任がないとしても、前記の如く被告はその必要もないのに失明の蓋然性が極めて大きい白金線による角膜焼灼の治療を実施したものであり、失明の事態を十分予想しながらそれも止むなしとしていたことが窺われるから、未必の故意による不法行為の責任を負うべきである。

仮に然らずとするも、被告は医師として原告の疾患に対し安全且つ適切な点眼による治療方法を実施すべき業務上の注意義務があるのにかかわらず、これを怠り漫然と危険極まりのない白金線による角膜焼灼の治療を実施した重大な過失若しくはその施術を誤つた過失があるから、この点で不法行為責任を負うべきである。

したがつて、いずれにせよ被告は不法行為により後記損害を賠償すべき義務がある。

6  損害

原告が本件診療事故により蒙つた損害は次のとおりである。

(一) 前記京大病院における治療費金三三、五九七円

(二) 前記府立大病院における治療費金四一、九一九円

(三) 右両病院へ通院のための交通費合計金六二、七〇〇円

(四) 右両病院へ入院中の看護諸費三九日分金七八、〇〇〇円

(五) 失明の後遺症とみられる疼痛や耳鳴りは将来にわたり治療の必要があるとともに、視力回復のための治療も引続き将来にわたり治療を継続する必要があるから、原告が死亡するまでの右治療費金一、〇〇〇、〇〇〇円

(六) 慰藉料金一二、〇〇〇、〇〇〇円

原告は、右眼失明のため、又現在も続く疼痛、耳鳴りのため計り知れない苦痛を受けている。しかも往時の状態に回復する望みは全くない。

7  謝罪請求

民法七二三条の規定は債務不履行による生命身体の侵害に対しても準用されるものと解されるところ、前記のように原告の受けた失明或いはその後遺症による苦痛は計り知れず、金銭だけでは到底償われ得ないものがある。

したがつて、被告は前記債務不履行責任第二次的に不法行為責任として原告に対し前記金銭賠償に併せて謝罪すべき義務がある。

8  よつて、原告は被告に対し金一三、二一六、二一六円の支払と謝罪を求める。

二、請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2  同2の事実中、原告が昭和四七年一月三一日から同年二月二日まで被告医院を訪れ被告の診療を受けたこと、その際の治療内容、原告はそれまでも時々被告の診療を受けていたこと、原告が同年二月三日以後京大病院等で治療を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。

被告は、白金線焼灼を行うに先立ち、原告に「角膜が化膿している。匐行性角膜潰瘍にでもなると大変ですから、その拡大防止の処置をしましよう。」といつたものであり、原告主張のような説明はしていない。

又原告は、白金線焼灼をなした当日に失明したと主張するけれども、それは右処置後の痛みをおさえるためミドリンPを点眼、散瞳(ひとみを拡げて安静にさす)したのと、抗生物質、ビタミンB2等の軟膏を入れたたため視力が低下したことを指するものと思われ、全く一時的なもので失明などというものではなく、その後旧に復したことはいうまでもない。

3  同3の事実は否認する。

4  同4の(一)の事実の被告に診療義務あることは認める。

同(二)(三)の事実及び主張は争う。

5  同5の事実及び主張は争う。

6  同6の事実は否認する。

7  同7の事実及び主張は争う。

三、被告の主張

1  原告は、昭和四四年四月二日から同年八月一二日まで兎眼性角膜炎で一六回、同年一二月一二日から同四五年一二月一九日まで兎眼性角膜炎並びに角膜潰瘍で二八回、同四六年一月一六日から同年五月一三日まで兎眼性角膜炎で一七回、同年七月二四日から同四七年一月三一日まで同症で六四回被告医院に各来院し、その都度被告の診療を受けていた。

2  原告の兎眼性角膜炎ないし角膜潰瘍は右のとおりなかなか治癒困難なものであつた。その理由は右眼病の原因が過度に行われた眼瞼の挙上手術に因るものであり、眼瞼皮膚の移植手術等の根治手術を行わなければ、角膜炎等の発生を防止することは著しく困難な状況にあつたからである。

そこで、被告は右治療に当り、原告に対ししばしばこの旨を述べて、一日も早く根治手術をするよう勧めてきたのであるが、原告はこれを拒否しつづけたため、被告は止むを得ず、その都度対症療法(痛み、異物感、視力低下、発赤に対する臨時処置)による治療を行う外なかつた。

3  昭和四七年二月一日原告の来診に際し、被告は原告の右眼の潰瘍部分の一部が化膿していることを発見した。いわゆる匐行性角膜潰瘍の症状である。匐行性角膜潰瘍は化膿が急速に進行するものであるから、急いで化膿の拡大防止をはかる必要がある。そこで被告は原告にその旨を述べ、原告の同意を得て、直ちにフルオレスチン色素によつてこれを染色し健康部と化膿部を染め分け、いわゆる白金線によつて視力低下を来さぬよう、特に瞳孔領域をさけて化膿部位にさわるかさわらぬ程度に軽く熱処理を施し、これを凝固せしめたのである。

この方法は匐行性角膜潰瘍に対する治療の方法としては最も有効な処置であることは臨床眼科学会における通説であり、常識でもある。さらばこそ翌日診察の際には化膿部位はきれいになおり、原告は喜んでいたのである。

もつとも原告には糖尿病の持病があり、この病気は化膿拡大の危険にさらされる虞れがあるので、特に原告に対してはこの事実も述べ、数日間特に安静に努めるよう注意しておいた。しかし、原告は被告の右注意にもかかわらず兎眼性角膜潰瘍と匐行性角膜潰瘍とを同一視し、右治療後の安静を無視した嫌いがある。

4  これを要するに、被告が原告に対してなした処置はすべて適切であり、原告の症状が悪化した事実はない。仮に悪化したことがあつても、それは原告の不注意によるものであり、又抜本的には眼瞼皮膚移植等の根治手術に応じなかつたことに因るものである。

5  以上のとおりで、被告のなした治療行為に過失はなく、したがつて失明或いは視力低下の事実があつたとしても、それは被告の責に帰すべきものではないから、本訴請求は失当である。

四、被告の主張に対する原告の認否

1  被告の主張1の事実中、原告が被告医院へ何度か通院したことは認めるが、その症病名、通院回数は否認する。

原告は、被告から点眼してもらうために通院していたにすぎない。

2  同2の事実中、原告が過去に右眼瞼の挙上手術を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。

3  同3の事実中、白金線焼灼をしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

被告は、白金線焼灼をなした際原告がすでに化膿性角膜潰瘍或いは匐行性角膜潰瘍に罹患していたかのように主張するが虚構である。けだし、細隙燈をも使用しないでなした被告の診察方法では不十分である。のみならず角膜感染症は殆んど全て角膜異物除去による角膜上皮損傷が先行するから、右事実の有無を問診すべきところこれをしていないし、そもそも原告にそのような事実は全く見当らないからである。

4  同4の事実は否認する。

5  同5の事実及び主張は争う。

第三、証拠関係<略>

理由

一準委任契約(診療契約)の締結について

請求原因1の事実及び原告が昭和四七年一月三一日から同年二月二日まで被告医院を訪れ被告から右眼の治療を受けたこと、右二月一日に被告からフルオレスチン色素による染色検査及び白金線焼灼による治療を受けたことは当事者間に争いがなく、原告本人尋問の結果によれば、原告は右一月三一日に右眼に充血があり、又疼痛があつたため被告の点眼治療を受けたが、翌日になつても症状が良くならないため、同年二月一日午前被告に再度診療を求めたところ、被告から前記白金線焼灼の治療を受けたものであることが認められる。

右事実によると、原告は遅くも昭和四七年二月一日午前被告に対し当時の原告の右眼の症状を医学的に適確に判断したうえ、これに対する適切な治療行為をなすことを依頼する申込をなし、被告がこれを承諾したものと判断され、これによると原、被告間に右のような診療を内容とする準委任契約(診療契約)が成立したものと解するのが相当であり、被告が診療契約に基づき原告に適切な診療を行い副作用の防止義務があることは当事者間に争いがない。

二原告の症状の経過及び被告の診療について

<証拠>並びに証拠保全による検証の結果を総合すると、原告の右眼の症状の経過及び被告の診療について次の事実が認められる。

1  原告は、幼少時右上眼瞼に麦粒腫とみられる腫瘍を生じたことがありその治癒後その瘢痕のため右眼が兎眼様となり、昭和四〇年頃市民病院で整形手術を受けたが、上眼瞼の変型は好転せず、逆睡毛が乱生して抜毛をしばしば行わなければならない状態であつた。

2  右のように右眼の状態が不良のため、原告はその後も結膜炎や兎眼性角膜炎等に罹患し、その都度京大病院や被告医院に赴いて治療を受けていたが、そのうち被告医院における昭和四四年から同四七年一月二九日までの診療歴(病名、治療期間、来院回数)とこれに対する被告の診療態度は前記事実摘示の被告の主張12の記載のとおりであつた。原告の昭和四五年一〇月二六日及び同四七年(乙二号証に四六年とあるのは四七年の誤記と認む)一月一九日における右眼視力は0.5であつた。

3  被告が前記のとおり昭和四七年一月三一日原告を診察したところ、右眼の充血は軽度であつたが眼脂が多量に見られた。しかしそれ以上の著変が認められなかつたことから、これまでと同じように洗眼処置をし、目薬を点眼する治療をなした。

ところが、翌日の同年二月一日午前原告が来院した時、被告が手持細隙燈を用いる等して原告を診察したところ、原告は眼痛を訴え右眼に軽い充血があるほかその瞳孔領に近い角膜の耳寄りの部分が化膿し眼脂が多く認められた。被告はこれを匐行性角膜潰瘍でないかと疑いをもつたが、未だ前房蓄膿は認められず、右化膿浸潤が匐行性のものか否か経過を見なければ直ちに断定できなかつたため、一応化膿性角膜潰瘍と診断した。このため被告は原告に原告の患部を固めておきましよう、という趣旨のことをいつて化膿部位と然らざる場所を区別するためにフルオレスチン色素による染色検査のうえ、麻酔をなし化膿の進行拡大を防止するためフルオレスチンによつて染色された化膿部分を熱した白金線により軽く焼灼(熱凝固)し、抗生物質のエコリシン軟膏、散瞳薬ミドリンP、栄養薬ビタミンB2を大量に塗入或いは点眼し眼帯をさせた。又療法上必要な注意をし、自宅での点眼薬としてクロマイシンとコンドロンを原告に与えた。

原告は、右治療後五時間位して麻酔がとけた頃から右眼視力の低下を覚え、疼痛が激しいため、同日夕再び被告の診察を受けた。この時の被告の所見では、角膜が瞳孔領に重なつた部分まで線状混濁し、軽度の毛様充血が見られたが、潰瘍部分の前記化膿は消失し前房蓄膿も認められず眼脂も減少していた。

被告は翌二日も原告を診療したが、同日朝診た時は角膜は混濁していたが前房蓄膿はなく眼圧は正常で潰瘍底は透明で化膿部位はなかつた。又同日夕方診た時は角膜は同日朝より透明となり眼圧正常、前房蓄膿はなく潰瘍は尚存在したが化膿部位はなかつた。この日の治療方法は何れも前日同様、エコシリン軟膏とビタミンB2の塗入ミドリンの点眼等であつた。

4  原告は前記のように右眼の視力が低下したことに衝撃を受け、且つ自覚症状が好転しないことから、被告の診療に対し不信感を抱き、翌日の二月三日京大病院で診療を受けた。同日の同病院正和朗医師の所見では、黒球の周囲に充血、が見られるほか前記化膿部分が細胞浸潤を伴う浅い角膜潰瘍となりそれが瞳孔領に及び毛様体にも炎症があり、又軽度の前房蓄膿(一、五ミリメートル)が認められ、匐行性角膜潰瘍と診断された。そして瞳孔が縮少し対光反応が弱まつていて、右眼の視力は一八センチメートル離れたところから漸く指の数が確認できる程度であつた。なお前々日被告が行つた焼灼の跡はすでに白金線焼灼による瘢痕か潰瘍治癒による瘢痕かを識別できない状態となつていた。(それから約一週間後被告が正和朗医師に会つた時同医師は被告に焼灼の経過に異常はなかつたと告げた)

京大病院では原告の右眼に前房蓄膿があり病勢が進行するおそれがあつたため同月四日から同月二二日まで原告を入院させて治療し、右前房蓄膿は消失したが、角膜の浮腫や浸潤、混濁、ただれなどはその後も容易に根治せず、疼痛が続いた。そして、原告の右退院時、同年三月一〇日及び同年七月一〇日における右眼の視力はいずれも0.1(その矯正視力は三月一〇日に0.3)であつた。原告は同年七月一〇日まで京大附属病院に通院した。

なお右入院中の同年二月五日、原告は耳鳴りのため同病院耳鼻科で診察を受けたが伝音性及び感冒性疑聴と診断された。

5  原告は、更に同年七月一七日頃から府立医大病院で診療を受けるようになり、兎眼の治療のため瞼前筋、瞼板筋切断、皮子移植の手術を同年八月二一日、九月一一日、一〇月二日の三回にわたつて受けた。しかし、完全に兎眼状態や睫毛乱生も治癒するに至らず、右手術中途の同年九月一九日頃には、前回とほぼ同一場所に匐行性角膜潰瘍がみられ、その後も角膜の混濁、ただれなどがあり、疼痛、耳鳴りが現在まで続いていると訴えている。

府立医大病院における診療期間中の右眼の視力は、同年七月一九日頃には0.05、同年九月五日には0.07であつた。その後の視力は検査結果の証拠がないので判然しない。

6  失明とは医学的には光覚がなくなつたこと、即ち網膜に対光反応が認められない場合をいうのであるが、原告の場合は医学的に未だ失明とまではいえないし今日では更に悪化しているとはいえない。

以上のように認められ、原告被告本人尋問の結果中右の認定に反する部分は措信することができず、又被告の行つた焼灼法が原告の角膜上皮に損傷を与えたという事実は認められず、フルオレスチンが感染源になつたと認めうる証拠はない。

三<証拠>によれば、化膿性角膜潰瘍というのは化膿性角膜炎より進行して患部に潰瘍が生じた状態の疾病をいい、匐行性角膜潰瘍はその代表的なもので、主として外傷等で角膜上皮に欠損が生じたところへ各種の細菌(曾ては肺炎双球菌が、最近は緑膿菌が一番多いといわれているがそれらのみでなく連鎖状球菌、ブドウ球菌等あらゆる菌がある)が侵入し角膜組織内に入り潰瘍を作るものであるが、異物除去の後とか明らかな角膜上皮損傷の既往症がなくても、角膜上皮の組織抵抗が減弱している場合高年者、動脈硬化、アルコール中毒、栄養失調、悪液質等の場合にも起り易く、白斑、ブドウ腫、麻痺性角膜炎、ヘルペス、角膜浮腫、トラコーマパンヌス、緑内障等の組織の新陳代謝の低下しているときにも起り、糖尿病性網膜症に続発した緑内障患者にも生ずることのある疾病であり、一方では化膿性浸潤を形成しながら進行拡大するがその反対側では潰瘍面浄化と平滑化が行われるため匐行性という名がつけられていること匐行性潰瘍となると前房蓄膿と併行することが多いことこの疾病は場合によつては失明を招く重篤な眼疾であること、このため医師としてはこれを早期に発見し細菌の浸潤を食止める必要があるので古くからヨードチンキによる殺菌、本件で行われたような焼灼法による殺菌が行われていること、戦後は抗生物質の発達でそれを用いて殺菌することが多くなつたが、この抗生物質もそれを使用し出すと耐性菌が現われるため又それに対抗する抗生物質を作らねばならぬ状態が続いていること、このため抗生物質による場合は先づその起炎菌の種別決定をせねばならぬがそれには時間がかかること、これに比べ白金線焼灼法というのは白金線に高熱をもたせ患部に接近又は接触させて殺菌するものであるから殺菌効果は直ちに現われること、しかしその焼灼部位が大き過ぎて特に瞳孔領を犯すと視力障害を起す恐れが大きいこと、即ち焼灼の部位が瞳孔領から遠くて範囲が小さければ視力障害は少く回復が早いがその反対の場合は視力障害が大きく、視力回復が容易でないこと、前房蓄膿によつても視力障害が生ずる可能性のあることの各事実が認められる。

次に医師と患者との間の診療契約は、医師に高度の専門的知識と技術が必要とされる反面、医師がその疾患に対していかなる治療方法をとるかについては医師に相当な自由裁量を認めるのでなければ臨機応変の処置をとり得ず、それが当時の医学上の学問水準、当該医師の学識、経験に徴して相当であれば、前方法に過失があれば格別、そうでない限り、当該治療行為の結果について違法性はなく免責されるといわねばならない。人間の身体は千変万化あらゆる可能性を含み、本件のような診療契約は被告が善良な管理者の注意を以て鋭意原告の治療に当ればよいという趣旨であり、従つて又ある治療方法に副作用が伴うとか予後に変化が生じても必ずしも契約に違反するものとみることはできない。

四そこでこれを本件について考察するに被告が原告の眼疾を匐行性角膜潰瘍と疑つたり又化膿性角膜潰瘍と診断したことはその後の京大病院における診断とも一致し何ら不合理はないから誤りはないというべく、又被告の行つた白金線焼灼法も被告の学識、経験、当時の医学水準からみて不相当とはいえないからこれを以つて不適切、不必要な治療であつたということはできない。原告は、被告は焼灼法を行うべきでなく、起炎菌を先づ検出し感受性試験を行い抗生物質の投与にとどむべきであつたというが被告本人尋問の結果によると被告は従前の経験に徴し本件は肺炎双球菌によるものだろうと推定したため起炎菌の検出調査を行わなかつたことが認められるのであり、かつ被告は凡ゆる菌を殺す焼灼による殺菌を考えたため起炎菌の検査をしなかつたとしてもこれを不当とすることは出来ず、又原告には同時に抗生物質であるエコリシンの投与を行つており<証拠>によると京大病院でも同じエコリシンの投与が行われていることが認められるので被告の処置を以つて不当であつたとみることはできない。この併用を不当視することはできない。又身体の栄養、抵抗についてはビタミンB2の投与をしているから失当とはいえない。

同原告は被告の焼灼が上皮損傷を来たし、それが匐行性角膜潰瘍を起させたというが、かかる事実を認めうる証拠はなく、又前記二、三で認定、説明したごとく被告が原告を診断した時既に原告に匐行角膜潰瘍の発症を疑つており、潜在的にその発症の蓋然性が高かつたのであるから被告の焼灼がこの原因を作つたという原告の主張は採用できない。

同被告がこの焼灼に当り原告にその意図、施療後に現われる状態について十分説明したと認められる証拠がなく、これが原告の不満を増大させていると見られ、その点は理解できるがこれを以つて被告の行為を違法とか不当視することはできない。

五ただ焼灼後疼痛があつたことや暫時の視力障害は別として原告所持のカルテ(乙二号証)によると原告の右眼視力は前記のように昭和四七年一月一九日当時〇、五あつたものがこの焼灼後は減退しその後の京大病院、府立医大病院での検査当時は〇、一或はそれ以下しか見えなかつたこと前記のとおりであり、現在はどの程度回復したか判然しないが原告の右眼視力が低下したことは事実とみるより外なく、これが本件焼灼によるものといえるかどうかは難しい問題といわねばならない。被告の行つた焼灼が視力障害を起す瞳孔領に及んだという証拠はないが、全然及ばなかつたと断定することも難しいところだからである。しかし仮にこれが及んだとしても極めて僅かでしかないことは当時やその後の経過により明らかであるからこの程度のことは前記診療契約の趣旨からいつて許された危険の範囲内のことであつて違法性がないというべく、結局原告の視力障害とその後の症状は被告や京大病院、府立医大病院でも診断された匐行性角膜潰瘍や前房蓄膿の結果でありそれ自体は原告の従前の眼疾、高年令、体質種々な生活態度から生じたものとみるべきであつて被告の責に帰すべきものとみることはできい。

六以上説明のごとく本件が被告の不適切、不要な治療行為で被告の責に帰すべき債務不履行であるという原告の本訴請求は他の判断を待つまでもなく失当であり、従つて又被告に故意又は過失があるということもできないので不法行為を理由とする原告の予備的請求も理由がないのでこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(菊地博 小北陽三 佐々木寅男)

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